平たく言うと

Category : 辛口ごめんなさい

いよいよ2012年ですね。今年も気が向いたら辛口におつきあい下さい(^^)

さて

皆さんは自分の中によろしからぬ想念が自覚できた時、どう感じますか?いきなりこういう質問を放り投げるのはいかがなものかとは思うんですけど、この期に及んでジタバタしてもしょうがない…なのか、どぎゃんかせんといかん…(古い?)なのか、人それぞれに思うところはあるでしょう。

えっとですね

念仏ってありますよね?衆生には阿弥陀如来の慈悲にすがって救われる道があるという。南無ってあのインドの「ナマステ」のナムですからね、まずはそこを押さええてもらって。阿弥陀仏を唱え讃えることで救われるという阿弥陀信仰ですが、その念仏信仰とお釈迦様が実際に説いたことは無関係。そこも押さえてもらって。第一、阿弥陀如来は後世の誰かが創作した虚像。法華経もお釈迦様亡き後遥かな年月がたって編成され体系化された教典です。法華経も釈迦の功績を讃え、法華経や般若経にしてもそれを唱えることで彼岸を目指すという主旨。

皆さん

唱えるだけで涅槃・・・お釈迦様が到達した境地に達すると思いますか?

日本で仏教が庶民に広まっていく過程で生活苦に喘ぐ下々の人たちは文盲でした。従って難しい教典を学び修行する余裕がなかった訳ですね。しかも貧しいので多額の寄付もままならなかった…そこで阿弥陀仏という虚像を打ち出して慈悲にすがりなさいということで広まったのが真相です。この世は乱世と疫病が蔓延すること久しかった時代背景もそこには横たわっています。
どうしてこうも不成仏霊が何千年も経ていなくならないのかの理由のひとつと言えそうです。元気な間に散々悪さをして、嫁いびり部下ハラスメントをして、病に伏して『死』が目の前に迫ってきて念仏唱えて助かろうなんてムシの良い話な訳ですね。

しかしながら全ては架空。気休めにしかならない。まぁ気休めでも構わないという場合もあるでしょう。ウソも方便と言いますからね。加えて読経はある一定の音階があります。それが精神に訴えるということはある…賛美歌も同様ですね。



そう言えば



確か有名なお坊さんに出家前(それが出家の動機)ふたりの女性の狭間で苦悩して(仲良く一つ屋根に暮らすかに見えて障子の向こうの影は邪だったそうな)自分の業の深さに気づき出家した男性がいるようですが、そのご仁、成仏していませんから。だってそれ「逃げ」ですからね。根本解決にはな~んにもなってない訳です。独りよがり。このお坊さんも生きていた間が華だったでしょう。しかしながら精神鍛錬はできていますから、より厳しい人生を受け入れて娑婆世界で転生し続けたでしょう。

根本原因から逃げる場所が仏教ではありません。

根本原因を見据えて生きるのが仏教の原点。煩悩を絶つのに一時は娑婆世界から離れて自分を見つめ直すのも良いでしょう。しかしながら深山で培った叡智は娑婆世界で発揮せねば。お釈迦様は悟りを開いて後はずっと衆生とともにいましたよ。そこんとこきちんと押さえておいて下さいね。

さて

自分の中に邪心を見出したとします。すると良き人ほど自分を駆り立てて戒めの道を目指します。あるいはどうしようもなくなると霊能者や新興宗教の門を叩きます。私もかつてはそうでした。新興宗教は数あれど何処も『お導き』が主体。教団維持するための資金を必要とします。つまり信者はその手足。それは否定できないでしょう。多額の見立て料を要求する霊能者や占い師もそれに準じます。まぁ喜んでそこに身もお金も投じるのは個人の自由。そこに生き甲斐を見出している段階があるのを私は否定しません。チャネラー依存も同類。

でもそこは到達点ではない

通過点にしか過ぎない

そこを卒業せずして『解脱』も『霊的進歩』もありません。人生を人頼みで費やす、あるいは予言情報に一喜一憂するうちは

足踏み状態

と心得ましょう。あるいは二歩出て三歩下がりの人生かも知れませんよ。笑いごとではありません。全ては参考にしか過ぎません。このブログにしても何かしらを自分と照らし合わせて顧みる縁(よすが)自分の中にあるアイデアや気づきを引き出すためのヒントにしか過ぎません。

このブログは依存の呪縛から解き放たれていない段階では主旨に触れることはないと思います。それは「視える」とか「聴こえる」とかに甘んじている人も同様です。手厳しいですか?今に始まったことではないでしょう。

ずいぶん前に、薄暗い教室の中で目覚め、そこを出て明るい廊下に出たのは私ひとりだけだったという夢を見たことがありました。前にも話したことがあると思います。その教室で眠り続けていた人の中に後日実際に会うことになる人もいました。私は自分が色々と心が定まらない時期でしたから、その夢の真意を得られずにずっと過ごしました。

今は視野が広がりましたから(それでも発展途上ですよ)目覚める『霊的開眼』とは霊視・予知・予言のように外界と繋がることではないと分かります。ところが今も多くの人が霊能に憧れ能力伝授を目指しています。それをビジネスにしている人もいる。

その枠から柵から一歩出たからこそ眺めが良いということがあるんです。霊能?そんなのそんなに重要ですか?念仏?唱えることで救われるなどムシの良い話と明言できる。

人生は一歩一歩自身の足で歩み始めてからが

目覚め


それ以前はまさに夢で見た「薄暗い教室で眠る人」霊能力者もです。そこに皆さんには気づいてもらいたいと思います。ヒーラーやチャネラーに痛い目にあっている人なら分かるはずです。彼らはカルマの上塗りをしていることを。

そこで、です。あなたの中に邪心を見出した時は自分がどの段階にいるかを測ることができます。参考にしてみて下さいね。

・懺悔の段階

・戒めの段階

・情報模索(自分探し)の段階

・情報を取捨選択する段階

・自分の中に答えを見出す段階

・人間関係の縮図を見出す段階

・人生が何のために実現したかを知る段階

・役割分担があることを知る段階

・尊い存在からの使命を担っているという錯覚から目覚める段階

・すべては自己申請と知る段階

・すべては自分が仕組んだ人生と気づく段階

・身の丈を知り、可能性を企画する段階

まだまだありそうですが、主立ったプロセスを列記してみました。重複する部分もあるでしょう。いずれにしても

死が訪れるまで

移行の瞬間まで(アセンションでいわれる肉体を伴った次元上昇)

私たちは一日一日を驕り高ぶることなく「なんぼのもんじゃい!」くらいの楽観で気負わずに。夫の家系は罪深いだの自分のは大丈夫だの、アイツのせいで人生滅茶苦茶だの、寝言はそれくらいにして(笑、笑いごとじゃない)自分が今どの段階・階梯にいるかを今年はじっくり見つめてみてはいかがでしょうか?

そして

あなたの中にある邪心は平たく言えば

性格悪い

そういう類いです。すべては陰陽。私たちの中には善も悪もあるということ。悪しき心とどうつきあうかということですよ。闘っているうちは熟睡中ってことです。それは

光と闇の闘いに従事しているというご仁にも言えます。夢中だから自身が寝ぼけているなど知る由もない。つまりそういう段階に彼らはいるということです。同時に彼ら自身の中には『闘いの息吹』が存在するということ。自分は正義の味方という思い込みを手放せないということ。世界を救うより自分の頭の上のハエと思い当たらない未熟者。言い過ぎですか?そうでしょうか。




光の使者として闇と闘っているという人も、創造主をチャネルしている(本の影響という自覚が足りず)人も、愛の腕の中の幼子(おさなご)です。






プロフィール

takako

Author:takako

maria letter
私が今伝えられること

リンクの「maria letter 小林です」は非公開ですが、更新はPDF配信に切り替え。ご希望の方は下記メールフォームより氏名(ハンドルネームはNG)・PDF希望をご記入の上お申し込み下さい。
(2016年12月27日記)

いったんアメブロに移転しましたが、広告の量がストレスで2015年11月にFC2でブログ復活しました。限定記事もこちらで復活。パスワードはそのままです。

リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ