6のぞろ目は聖なる数字?聖邪は紙一重です。

Category : ウェークアップコール

[追記 5月8日] タイトルを一部<正邪>から<聖邪>に訂正しました。ご了承下さい。





数字には意味がある。ひとつの数字が並ぶ、ぞろ目にも意味があるそうで…カバラですか?

言葉も言霊といって意味がある。

何ひとつ意味のないものはないんでしょうけれど、意味を持たせ過ぎるのもいかがかと思う私です。いずれにしても、例えば…、6が3つ並ぶと恐ろしやな気分になります。それは映画の影響ですが、人心とは大波に揺れる小船のようですね。「6のぞろ目には聖なる意味がある」という知識を持つ人がいるようで。

人は自分にとって都合の良い方に考えたがる。

6のぞろ目はその最たるものなのかなあと思うことがありました。でも、どうしてでしょうね?人はこう数字だとか文字に神経を研ぎ澄ますんでしょう。私は分からないから問うているのではありません。感じ悪いですか?

動植物は数字という認識がありません。だからと言って、下等動物呼ばわりは人間の浅はかさかな? 要するに彼らは数字の持つ意味など無関係に生きているだけということかと。人が言霊や数霊い気が回る背景には、

吉凶という

占術もそうかと思いますが、文明にお約束のようについて回る吉凶の卦。ぞろ目に意味を見出すのもその域ではないかと思うのですが、いかがですか?









カバラがどうであれ、数霊的にどうであれ、言霊であれ、それって人が編み出したもの。厳密に言えば、霊感に基づき体系化したものなのでしょう。これらは必要に応じて編み出されたハウツーかと思いますが、確かに影響がないとは思えない訳ですね。意味はある、少なくとも人間にとっては。そういうのを必要としない生きものは

人間より自然の理に準じていると言えなくもないのかなぁ。

種の保存。命の営みのサイクルの中で彼らは生存競争しながらも環境を自分の都合で変えようとはしない自分が適合することで進化してきたように思いますが、いかがですか?

彼らは故に<聖邪>という区別もする必要がない。人が編み出したこういう吉凶への飽くなき食指は環境を自分の都合に合わせて変えようとするから生じた要求と私は思う。

幸せになりたい!恵まれたい!

これもそう。いけないとか言おうとしているのではありません。人間の知恵と動植物の知恵との最大の違いを鑑みて思うところです。

常に人間は作為的です。もちろん、それも良いも悪いも紙一重。宗教は聖邪を取り扱う類。邪を祓うなど儀式化した経緯があります。

ですが、この世の事象すべては聖邪紙一重で成り立っている気がします。陰陽もそうでしょう。相反する事象が関わりあって成立する、それ即ち自然の理(宇宙法則)なのでしょう。

さて、6のぞろ目に関する「聖なる数字」という解釈は、まさに聖邪紙一重ということを物語っていると思いますが、さて…あなたに占断で「6ぞろ目はあなたのシンボル」と出たとします。そして、それには「聖なる意味ある」とも言われたとします。あなたは限りなく100%に近い確率で「聖なる意味」の方を取ると思いますが、いかがですか?
猟奇的性格ではない限り。この猟奇的という行動も人間オリジナル。何故そういうタイプの人間が発症(えぇ病気ですよ、心の病)するかと言うと、<自我>という、自意識過剰の為せる技に、生まれ落ちた環境が多大な影響を与える。何にかというと受肉した魂に。そうではなく、環境に左右されず猟奇的で傲慢となると強烈です。話が逸れそうなのでこのくらいにしますが(笑)、「6のぞろ目が聖なる意味を持つ」というスイッチが意識に入れば、人は心強さを感じるでしょう。だってそれは自己肯定ですからね。

「聖なる」一辺倒ではないと認識を持ったとしても、「じゃぁどっちよ!」と言えば、迷うことなく自分に心地よい方を取るでしょう

そういう人の心象の底に何があると、あなたは思いますか?

闇です。

闇と言われて拒否感を持つとすれば、あなたはまだまだ自分を色眼鏡でみる癖から抜けてないと私は言うと思う(ややこしい、笑)。6のぞろ目はそういう意味では格好の題材とも思う。

数字から何を見出すか?

言霊から何を学ぶか?

確かにこの宇宙には何かしら…そういう波動というか、働きがあるようです。従って、カバラにしても言霊にしても宇宙の働きであることに疑いを挟む余地はないでしょう。それを掴む…それって人間にとっては叡智となるのでしょう。ですが、そこに自分の都合の良い解釈が入り込む…その段階にある限り、人は囚われから解放されることはないでしょう。

この世は自由意志と業の合わせ技

それはこうした囚われも「あり」なのだし、もうそういうの「要らない」もあり。自分が選択したものを自分で受け取るというシンプルな約束事なのだと思う。

「逆もまた真なり」という諺があります。

光と闇は相互作用の極です。故に6のぞろ目が「自分のシンボル」という人がいるとして、もしその人が「聖なる意味」を選択し、そこに活路を得た場合、どういうことが起きると思いますか?

上から目線で申し訳ありませんが、闇が深まります。

ですが、それは見えるようにではありません。故に歯止めが効かなくなる。引き寄せのパワーもかなり強いはず。強いとなると余計に神様ごとに入れ込む。何故か?聖邪紙一重だからです。そして、そこに多くの人が群がり、支持する。彼らは深層心理が求めるものに貪欲です。私はそれをいけないと言おうとしているのではありません。それはシンプルな心の作用。

彼らは「導かれた」と言いたがります。

思い当たるブロガー複数いるのではないでしょうか? ですが、逆です。彼らが引き寄せている。だって、自由意志なんですよ。従って使命とは自己申請と理解した方が賢明…ですが、多くは納得しないでしょう。拒否するでしょうね。闇…闇も使いようです。もちろん自分の中の!という括りで。

闇は自尊心の巣窟

その自尊心さえも聖邪紙一重。自分次第で邪が聖にグデン!とひっくり返ることがある。えぇ私たちは「バカとハサミは使いよう」というお勉強をこの世でやっている学徒のようなものです。私も例外ではありません。皆さんは思いつきもしないでしょうけれど・・・上から目線で申し訳ないのだけれど、

聖なる存在は引き寄せを必要としません

必要ありません。何故か? 彼らは「委ねている」から
ですよ。分かりますか?この違いが。私はとても大切なことを言おうとしています。解する人がいることを願いますが、拒否感を持つ人は少なくないと思う。

人には自尊心ってのがあります。私にだってあります。自尊心って「バカとハサミは使いよう」ど真ん中。カバラにしろ、そこには聖と魔が潜んでいます。<魔>もバカとハサミは使いようではないでしょうか。だからでしょうか…、魔界の者が多くヒーリングに従事しているのは。彼らの特徴は

「私できるよ」というもの。確かになんらかの腕を持っています、神秘のね。

そして、能力に傾倒しがちなので見分けが容易い。上から目線で申し訳ないのだけれど。6のぞろ目…その聖なる意味に飛びつくタイプですが、視ると<魔界>の匂いがします。ですが、私は魔界=邪とは思っていません。

彼らはハウツーを持っているんですよ。如何に自分が有能であるかを証明しようとしてやって来ている(転生。受肉)かに見える。それとて「いけない」訳じゃないでしょう?

押し並べて人に受肉した者は自由意志と自己責任のお約束の腕(かいな)にあります。




突然で恐縮ですが、皆さんはなぜ堕天使が生じると思いますか?

「俺は有能。なのに皆、見る目がない」という自惚れが聖なる者をして闇に傾かせる…その刹那です。此処は自由意志の巣窟。巣窟ですよ、その娑婆世界は。ヒーラーに魔界の人が多いのも出入り自由だからでしょう。

誰もが自己証明にやって来ています。どうこの世で学び遂げるかも。猟奇的でない限り、人は自分が<邪>とは思われたくはないでしょう。愚者ともね。ですが、自分の中にそれは聖と同居している。同時存在(拮抗)しているという理解に至っている人はあまり多くないのだと思う。

<邪>に打ち勝つ。キリストだって試されたといいます。

<邪>とは自分が有能であるという、優れているという自負心が欲に支配されている状態と言えるでしょう。覚醒に傾倒しがちなのも。

森羅万象ことごとく聖邪紙一重。

要は、どう生きるか。どう存在するかということかと思います。





抱き参らせる。言うは易し、行うは難しなのでしょう。





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(2016年12月27日記)

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