ドッグ・イヤー?

Category : いよいよなのか

保江邦夫さんの著書2冊読破しました。感想は「信じるか信じないかはあなた次第」というトンデモジャンルで括るのがもったいないくらいエッセンス満載というもの。これはもう好み・感受の問題でしょうし、違うとか正しいとか「どうでもイイじゃん」という気にさせられました。「保江さんは体験したっつ~んだからさぁ」という…そこで喧々諤々するエネルギーって無駄骨な気がする私です。
と言うのも、私も不思議体験してますし、過去に書いた記事の中には聞いた話として『神様のタクシードライバー』という私の座右の銘もあります。皆さんも大なり小なり不思議な守護体験をお持ちではないかと思うのですが、いかがですか?
あなたが「本当にあったんだってば」と力説しても「まっさか~。あり得ない」と身内や知り合いから全否定されれば悔しいくないですか?あるいは「信じてもらえなくても結構」と開き直るとか。神秘体験は体験した者でないと…ねぇ。厄介ですよ、まったく。

さて

今日のお題の『ドッグ・イヤー』ですが、保江さんの著書に出てくる語彙で、1年はワンちゃんたちにとって8年に相当するという、それが人間の精神世界…と言っても業界じゃありませんよ(笑)変化が加速しているようだという話。
『神様につながった電話』P183 八倍速で世の中が動く時代』という章ですが、内容はこの本が書かれた年(2014年)は「我が無い・少ない・少なりつつある(ウケる、笑)」連中と、「我を消せない」連中は分離していく年なのだろうというものでした。
1年の動向が8年分に相当する…それって加速しているということでしょうし、変化が早い、現実化も同様かと思いますが、私が感じる限りで申し訳ないのだけれど、ドッグ・イヤーと、1年は1年という流れが平行している気がするんですね。この計算でいくと、どうなっていくんでしょうね。

何だか3ヶ月前のなのに遠い昔のように思えるんですけど、皆さんはいかがですか?

数年前から時間の経過、その感覚がある種「時差ボケ」のような、通常の感覚とは違うものがあるように思いますが、いかがですか?

時間とは人間の都合が編み出したツールですが、ワンちゃんニャンちゃんにだって「腹時計」「散歩時計」があると聞き及びます。何かしら習慣に基づく体内時計ってあるんですねぇ。人社会は西暦、太陰暦・太陽歴とか色々あって、地域地域に沿った暦を利用している…季節に応じたものもあります。

保江さんはこの章もそうですが、「我のない」状態へ向かう自分を含めた人間の姿を体験を通して描いています。
皆さんは「我のない」ってどういう人のことと思いますか?
いわゆる「利他心」「奉仕」とか想像すると思うんですが、いかがですか?ところが、そこに留まらないのが保江節。保江さんは<リーマン面>という語彙を使って、「「俺が」「私が」という自分を前面に出す意識」の人間が住む<面>と、それを手放した・手放しつつある人間が住む<面>その間には境界があり、今はそれは重なり合っている状態と話を展開しています。1年が8年分の濃い時間とすると、重なった状態からセパレートするのはいつなのか?という疑問が湧きますよね?
保江さんは講演会でも質問への答えとして「いつ起きるか」と、それは個々で違うだろうという趣旨の話をしていました。

想念には周波数がある

周波数は多岐に渡りながら、グループを構成する

<面>とは上手いこと言うなと私は思う。「行ったきりなら帰って来ない」互いに相手は「消えた」と認識する。神隠しが多数報告される日はあながち遠くないのでしょうか?

保江さんは93歳の寿命と未来を視る方から言われたそうです。実際はもっと短かったんだけど、守護体験を重ねて、新たなチャンスを得たということなのでしょうね。で、これを読んで「ひょっとしたら、93歳の寿命を全うする保江さんの<リーマン面>には放射能汚染や、第三次世界大戦など何処吹く風な世界かも知れないなと…、お弟子さんが世界へ散って<愛魂(あいき)>布教活動(妥当な言葉かどうかは別にして)する世界…、そこには<平和>が感じられます。
そうではなく、欲と皮が突っ張った「我欲」「自分が良ければ」という人と同時存在したままとすると、それはそうですね…、戦闘地もあれば、疎開地ののどけさもありの世界なのでしょうか?

いずれにしても、ドッグ・イヤーが今後も続くとしても、ある時ピッタリ止むとしても、私らは自立の方向へ向かうのかなぁと思う。自立と我は紙一重なんでしょうね。パラドックスですが、依存から解放されると自然と立ってられます。自然と無理なく立ってられると何も「私が」「俺が」と力まずとも満たされます。

自然と立ってられると

あぁ守護を頂いてるんだなと思い知ります。立っていられる自体が、自由意志で生かされているということですよね。支えがなきゃ立っていられないようでは常にマリオネットですものね。
体験する自由を得ている私たちです。基本的に「自立」まで持っていけてこそ、歩むことができるんですものね。赤ちゃんを見れば明らか。

寝返り打てるようになって

ハイハイするようになって

つかまり立ちできるようになって

よちよち歩きを始めて、走る!踊る!表現するようになる

人間のこの一連の成長過程が全てを物語っています。そして「俺が俺が」の時を迎え、それからなんですしょうね、今わたしらが歩んでいるこの過程は…きっと。
そう言えば、『オオカミ子供の雨と雪』の弟の雨がオオカミとしての人生を選び取る過程は確かに「僕の生き方は僕が決める」でした。一見「俺が俺が」のようですが、その生き方は森と森に生きる生きものたちとの言葉を超えたコミュニケーションなしでは成し得ない生き方ではないかと思うんですね。決意の底にはオオカミとしての自覚の目覚めがありました。

何が「我」で何が「我」じゃないのか、決め付けは難しいかも知れません。

自由意志

大好きなアッシジの聖フランチェスコもキアラも親を捨てました。大いなる父の腕(かいな)に抱(いだ)かれる道を選んだ。

「愛されるより愛したい」

あまりにも有名な言葉ですが、聖フランチェスコの決意は愛へ溶け込む、愛に自分を明け渡す清しいものだった…だから多くの人々を惹きつけるのでしょうね。聖フランチェスコの生きざまって「我のない」状態なのですよね。

1年が8年の濃さ…らしいこの時期でも平常心で。あなたにはあなたの歩幅があります。

発芽を待つ種…その時期もそれぞれ。あなたにはあなたの時期があることを尊重して下さいね。





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(2016年12月27日記)

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