誰の心にも『毒』はある

Category : つぶやき

残暑お見舞い申し上げます。


私は今年いっぱいでいよいよお仕事撮影にピリオドを打つように動いています。来月が山場を迎えます。例え被写体は同じとしても心づもりってあるんですね。私が尊敬するカメラマンも長いキャリアの後に取材ではなく作品作りということで競技会にエントリーしている方がいます。自費出版で自分が納得する本を作ってらっしゃいます、出版社のオファーを蹴って。

私はこういう贅沢って素敵だなと思うんです。派手さはないし、部数だって小規模。それでも自分が納得する作品作りをする…売れるかどうかなんて気にもしない。そりゃあ売れれば嬉しいに決まっています。それでも目的はそこではない、カッコいいなあなんて思います。

私の場合、カメラマンとしてのキャリアは大したことないし、自分史とか自分が生きた証とかいうふうには思えないんですけど。雑誌に載ったとして、それは宣材には確かになる訳です。でも、もうそういうことにも興味がなくなって数年たってしまいました。
例えば…私は画像をファイリングとして時々印画紙に焼きます。まだまだプリントしてファイリングしなきゃと思うデーターは山積み。でも、中途半端になったとしてもそれはそれでイイのかなとも思うんですね。

私は良く達成感という話をします。魂の目的はそれだと言い続けています。

ならば私にとっての写真を通しての達成感は何かと言うと、

出逢い…に尽きるような気がします。二度とは来ない瞬間に立ち合うって時に鳥肌が立ち、脳裏に刻みつけられるインパクトの魅力は筆舌に尽くし難いものがあります。カメラは私にとって大切な相棒なんですね。多いに助けられもすれば、ぶっ壊れて(笑)凍りついた経験もあります。人の援助を受けたことも多々。

え?それと「誰の心にも『毒』はある」とどう関係があるの、ですか?

それは私が対象としていたのがスポーツ競技、しかも言わば女の園的業界だったんですけど、常に派閥・金銭・人脈・裏工作・職権乱用などなど何処かで聞いたようでしょ?

そこを最近抜けた人物と携帯で話す機会があって、常々あまり評判の良い方ではなかったんですけど、その方の中にどうしようもなくある『毒』と癒しの才覚を見ていたんですね。久しぶりに話して、その人に何が『毒』の作用をし、何が『癒し』の気を発させるかを見た気がして。

今日はその方を通して私たちの中にある『毒』と『癒し』について書いてみようと思います。いつものようにこれは私個人の感じ方。こういう見方もあるのかという程度に読んで頂ければ幸いです。



その方は、
本当に余り良い噂はありませんでした。しかも私がまだアマチュア・カメラマンの頃からの顔見知りで私自身も要注意人物と感じるところのある人物でした。
ところが近年撮影協力をするうちに人柄に触れ、私はつくづく人の心の中には毒も薬もあるんだと思い知るようになりました。そして、それは私も含めて誰もがそうなのだと悟るに到った訳です。

では、
どういう時にその方…Dさんとしましょう、Dさんは毒を吐くのかというと、

自分はもっと認められても良いはずだというスイッチ、
実力者の名を挙げて、その人物は自分を推薦してくれるけれどというスイッチ、
業界の不正、自分たちは証拠を握っているけれど下手に動くと危ないというスイッチ、

これってどんな組織であったとしても聞かれる話と思うんですけど、要するにDさんに限らず人は思うようにならない現実や自分に不都合な人物に不平不満を抱えていませんか?
何気に自慢話と取れる話を何度もすることもある。

いかがでしょう?

何かと人を見下す物言いをする人もいます。

毒のスイッチはひとそれぞれ。でも、醸し出す『気』はその人自身にも、相手にも流れるという共通点を持っています。つまり毒って相手だけではなく、本人にも流れるもののように思います。

毒とは、言わば「あれさえなきゃイイ人なんだけど」という性質のもの。惜しいなあとつくづく思える、人の悪癖を指します。私は、人を見下す瞬間の(とは言え、人を選んで見下しているんですよ。これは頂けません)その人の吉のエネルギーに暗雲が立ち籠める様子を視て本当につくづく「あれさえなきゃ」と。人のフリ見て我が身と思ったんですね。

でも、そうだからと言って全てが「ダメじゃん」とは決めつけられないようにも思いました。私たちは皆、未熟です。一歩一歩進んだり退いたりの繰り返し、それが人生なのではないでしょうか。長所も欠点もあるのですから。人付き合い、そのサジ加減は本当に難しい。


そうして久しぶりにDさんと携帯で話して、業界を退いたことを私は知った訳です。

何と言うのでしょう…肩の力が抜けたプレッシャーから解放された良い声色をしていました。それでも業界の話をすると毒が(笑)。ところが「今、畑で携帯とったんだけど」と収穫の様子を語り始めるとグングン!良い気が流れてくるんですよ。数分もしない間の変化。

有機栽培をしていてご近所に配って喜ばれたという話。元々整体に力量を発揮していた方で「杖ついたおばあちゃんが杖なしで帰っていくものだから、皆驚いてたよ」とかちょっと自慢も交えながら。

ところがその自慢話、嫌味に感じなかったですね。不思議でしたねえ。

心から喜べて利害を超えると、人から『嫌味』が消えるのでしょうか(笑)。なんか実に楽しそうなんですよ。ところが、

元いた業界の話になると毒気再発。

Dさんの魂は収穫の喜びに出逢って肩の力が抜けて、イイ感じになったのだけれど、大奥のような権力闘争に明け暮れた日々に意識が舞い戻ると一気に良い気が盛り下がってしまうんですよ。
気が盛り下がるということは魂がNOのサインを出しているということでしょうし…。第一、皮算用で人間関係を泳ごうとすること自体、魂を曇らせているってことなんでしょうね。Dさんは決して人相的には恵まれているとは言えないんですけど、決して欲の皮がつっぱらかっている人とは言えない。それでも、そういう評判が付きまとっていたんですね。本当に顔って大事なんですね。同じご乱心でも人相や雰囲気によって「え?あの人が!」と言われたり、「あ~やっぱりね」と言われてしまいますからね。

Dさんはまさにその点では誤解されやすいのだと思います。「Dさんって評判良くないねって言われてしまったしね」とボヤイていました。噂が一人歩きすることはよくあることですが。私が接する限りでは噂は噂として誤解されやすい言動にも注意せねばならないと思いました。Dさんは確かにクセが強く、計算高い面は否定出来ず、人により態度が一変する傾向があり、敵を作りやすい性格を有しています。計算高いだけではなく、色々苦労もしているのですけど、なかなか報われなかったようでした。

ところが、
セラピストの仕事(競技選手の骨格矯正も含め)に力量を発揮し、全国を忙しく飛び回っているのだそうです。有機農法にも喜びを見出し始めているようでした。暗雲が口から立ち籠めた…それが一瞬で消えるんですよ。

Dさんは作物に癒され、セラピストとしての手応えを感じ、

自分はもっと認められても良いはずだとか
実力者の名を挙げて、自分を推薦してくれるけれど、誰それに阻まれたとか
業界の不正、自分たちは証拠を握っているけれど下手に動くと危ないとか

そういうスイッチから自分を解放したのだと思ったんですね、それも無意識に。つくづく嫌気がさしたとかなんとか言いながら。


それで良いのだと思います。人は人を変えることは出来ません。思うようにならない現実で溺れそうになる…そうしなければ暮らしてはいけない、多くの人がそこで喘いでいます。

家族を養うため、
家賃を払うため、

世のお父さんたちは頑張っています。もちろん、会社に生き甲斐やり甲斐を見出しているお父さんもいることでしょう。
人は思うようでなかったり、様々な軋轢で毒気が内に籠ります。そして時に吐き出さずにはおれないのです。



誰の心にも『毒』はある。

それを良薬に変える手立てがない訳ではありません。簡単ではないのかも知れません。それでもない訳ではないのです。

どんなに気をつけていても時に意地悪な気持ちが沸き上がること、誰かに八つ当たりしたくなること、弱いものイジメ…上げたら切りなく何かしらが原因となって、人は暗雲の気・怒りの気を吐くことはあるものです。

どんなに意地悪な人にもそれなりに理由を持っています。そこが人は人を変えることが出来ない所以のひとつです。人を陥れる人でさえです。それが人として許されざることだとしても。


私はDさんに、人は「いる環境」によってこれほどまでに『気』が変わるものかと思いました。人は思うようでない環境に長年浸かっていると気の澱みが生じて毒を発散するもののようです。中にはそれが病気として発症する人も。

私自身、仕事撮影から撤収すると心に決めてから随分ラクになりました。気負いが抜け、もっと視野を広めて決めつけず、カメラをお伴に出掛けようと思いました。誰のためでもなく、自分が楽しむためにです。
人の評価もまったくと言って良いほど気にならなくなりました。私より上手い人は世界中に!いるのですものね。この達観は最速だったかも知れません(笑)。

心が健康であれば、人は毒は吐きません。

パワーハラスメントする上司もどっかで手放せない『理由』があり、権限行使も当然と思い込んでいるのかも知れません。それもある意味ではお気の毒な気がします。



昔々『仮縫い』という小説を読んだことがあります。

ファッション業界で権力を手にした女性の話で。最初は健気な女の子だったのが見る見るうちに権力に魅了され悪に手を染めていくんですね。そうして失脚。何もかも失って…初めて憑きものが落ちるんですけど。
人を陥れて、お金と権力の亡者となり、その座から追われてしまう…でも、その全ては『仮縫い』人生はこれから始まるという決意のような清々しさがあった、そんな物語だったと記憶しています。


何だかまとまりなかったですね。でも、人は夢中で駆け抜けた後、何かのきっかけでそれまでとは違う生き方に出逢うことがあります。生き甲斐を見出すことがあります。

生かされていることに思いが到ることがあります。



人はなかなか握りしめた手を開けないものです。途中で投げ出す気がしたり、負ける気がしたり、色んな気持ちが入り交じって一線を下りることが出来ない時ってあるものです。

それでも人生には岐路は訪れ、




Dさんに、私は手のひらを開いた人の清々しさと、思うようでなかった過去の痛みを交互に感じました。そしてそれは私たちの多くに言えることだとも感じて、感慨深かったのでした。

そして私はと言えば、鳥肌が立つような瞬間にまた立ち会いたいと何処かに出没しようと企んでいます(笑)。ニューヨークとソウルはその手始めかと。





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(2016年12月27日記)

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