願いと愛の間

Category : 魂のご飯

このテーマを書くにあたって最初に但し書きしておかねなならないことがあります。それは特定の人を対象にしている訳ではないということ。しかしきっと私たちは多かれ少なかれ経験することではないかと。

これは願いが何故聞き届けられないのか…という素朴な疑問にも通じるものがあるように思います。

今日はその辺のことを理解頂いて、続きを読んで頂ければ幸いです。




ますます多次元化が進んでいる中、引き寄せの法も活発に現実化しているのではないかと思います。想念の現実化はスピードアップしていますよね。そのことを実感している方も少なくないでしょう。


では、

恋愛に関してはどうなのでしょう。

あるいは思うような自己実現が出来ていない…何かしら躓きがある場合は。


意中の人の心を自分に向かせることが出来ないと私たちは苦しい思いを味わいます。振り向かせるためのまじないまであるほどです。

でも、これって愛なんでしょうか…。

愛にも色んな形がある。それは私も理解できます。愛には魂の発達段階に応じた表現があることも。しかしながら合コンで意気投合したからと言って、それって愛なのでしょうか。ただ異性を欲しているだけと私には感じられます。まあこれは私個人の考え方。こういう堅苦しい考え方をする人もいるというふうにご理解下さい。

しかし、それって愛なんですかね。寂しいとか欲しいとか…何処か本能的な要求が愛を隠れ蓑にしているように思えてなりません。まあ人を好きになるって生きものの本能ですものね。それに違いはないのかも知れません。

でも…私は人を愛することって本能を越えた何かを感じるのです。




私は十代の頃から「カレが欲しい」という友人の気持ちを理解できずにいました。恋愛ってそれこそ出逢い。欲しがるものなんかじゃない!「縁」という目には見えない何かが二人の男女を出会わせるものと思っていました。なので別に交際相手がいなくても痛くも痒くもない、寂しいなんて感じたこともない。まあ風変わりな女の子だったのだけは確かなようです(笑)。

彼氏が「欲しい」…欲しい?彼氏って欲しがるものなの?と。どうして?と発想してしまうんですね。そりゃあ「求めよ、さらば与えられん」とも言います。でも、愛は求める…欲しがるものではないという確信みたいなものが根強く私の中にあったのは事実。

出逢いは魂の約束。きっとこの広い空の下には赤い糸で結ばれた人がいると疑いもしませんでした。縁があるなら出逢うはずだし、きっと「あ!この人だ!」と閃くだろうと分かっていました。

実際そうでした。ハッとする瞬間があり、相手も同じように自分を気にかけていると分かる…人を好きになる瞬間って、何だか引き寄せの法とはまた別な世界観があるように感じています。
無論、お見合い結婚して年月をかけて愛を育む男女もいますよね。ただ「彼女欲しい」とか「彼氏欲しい」とかは私の辞書にはなかった。ただしちょっと背が高いとか相手のちょっとした仕草に「好きかも」なんて(笑)こともありましたけどね。


まあ生きていれば色んな出逢いを経験します。出逢いや別れがある。


私はここで『心に天国を築く』ことを奨励(笑)しています。笑いごとではありませんよね。これは本当に大切。こうなったら良いのにな、という願いを心に思い描くことは生活に張りを与えてくれます。

しかし、

相手のあることはどうなのでしょう。

もし相手に別に好きな人がいるとしたら、

どんなに心に天国を築こうとビジョンを描いても願っても叶わないとしたら、

私はある人にこのようなアドバイスをしました。いえ…その人だけではありません。異口同音に私は同じことをあらゆる場面で言ってきたように思います。それは以下のとおりです。








彼(彼女)の夢とあなたの夢は一致しないかも知れません。
想念が現実を創造するというのはウソなのかとあなたは思うかも知れません。

こと恋愛は相手あってのこと…なので思うようにならない現実にジレンマが生じてしまうのは仕方のないことですが、それではあなたは納得できないでしょう。

でも、

愛って何なんでしょうね。

誰かを愛するって。



願いと愛の間が埋まらない時、あなたはどうやって彼(彼女)への愛を表現しますか?

彼(彼女)が自分の思うようにならない。それをどうにかして自分に向けようとするのは愛ですか?それはエゴではないですか?

私たちは全員私を含めて未熟です。でも未熟さを言い訳にして欲しくはありません。厳しい言い方ではありますが、苦痛は自分の中で解決するしかないのです。

あなたの彼(彼女)への情熱の炎を消せそうもなく夢も叶いそうもない。

それでもあなたは愛を表現することは出来るのです。

あなたはこう祈ることができるのです。



私は彼(彼女)を愛しています。今でも気持ちは変わりません。
でも彼(彼女)は別な人を愛していて、私と同じ夢を見ることは叶いません。

でも、私は私の願いが叶うようにと祈る
それと同じ情熱で
彼(彼女)の夢が叶うように祈ります。

それが私を苦しめることになったとしても
私は彼(彼女)の夢が叶うように私は神に祈ります。




愛には色んな形があるでしょう。
しかしながら、相手を自分の思うようにコントロールしようとすればするほど、そういう願いを持てば持つほど、

私たちは愛から遠ざかってしまうのです。

今世では愛を成就できないかも知れない時、その痛みを変わって引き受けてくれる人はいません。

頭では分かっている!でも、出来ない!とあなたは苛立つかも知れない。そんなのは偽善と見なすかも知れない。



しかしながら愛以上の魂が学べる機会はないのです。

思うようでない現実を突きつけられた時ほど、私たちの魂は自分を試しているのですよ。

これは「全ての山に登り。全ての谷を渡れ」ということに他ありません。全ての山とは私たちが生まれる前に準備したシチュエーションを指すのだと思います。

引き寄せの法は決して侮れません。侮れませんが、こと相手あっての恋愛に踏み込ませるべきではないと私は思っています。


例え自分は彼(彼女)とつき合うのを望んでいても、彼(彼女)は別な人とそうありたいと思っている…そんな時こそあなたは自分の好きな人の幸せを願う機会なのですよ。

なかなか簡単には出来そうにはありませんか?

それこそが制限じゃないでしょうか?

何故できないかというと、それは自分の願望と真逆だからですよね。



地球にやってくる魂は様々な愛の度数を持っています。決して一枚岩ではありません。人社会は相手の気持ちをお構いなしの犯罪が後を絶ちません。これこそが愛から遠いと言わざるを得ないのです。

誰かを愛することと欲望が背中合わせ。それが人社会のテーマではないでしょうか。エロスと愛を勘違いしている人も少なくないように思います。エロスは愛が包括しているものではあるとは思いますが。




願いと愛は

私たちが自分の都合を越えた時、自ずと歩み寄るのだと思います。人はいつになったら恋愛ごっこから卒業するのでしょう…本能を隠れ蓑して。



愛の人キリストがこの世にあってからも二千年…相手あってのこと、という学校を卒業する日はくるのでしょうか。




私はハッとさせられる体験をした…なので実践しようと務めてきただけです。偉そうにと思われようと。愛は相手を自分の思うようにするためにあるのでは決してない。相手の幸せが自分思い描くのと一致しない時こそ心から相手の幸せを願う自分でありたいと私は思うのです。


不遜な言い回ししかできなくて、申し訳ありません。





私は理想主義者ですか?





私をどのように思うかはあなた次第です。




プロフィール

takako

Author:takako

maria letter
私が今伝えられること

リンクの「maria letter 小林です」は非公開ですが、更新はPDF配信に切り替え。ご希望の方は下記メールフォームより氏名(ハンドルネームはNG)・PDF希望をご記入の上お申し込み下さい。
(2016年12月27日記)

いったんアメブロに移転しましたが、広告の量がストレスで2015年11月にFC2でブログ復活しました。限定記事もこちらで復活。パスワードはそのままです。

リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ