小さなたかちゃん

Category : 魂のご飯

昨日友人と鎌倉に行った帰り、横浜で飲み会をしました。色々話しているうちにハッと今さらながら気づかされたことがあります。今日はその話をしようと思います。



以前私はヒプノセラピーを受けた際にインナーチャイルドを癒す体験をしています。幼かった私は父が死に母が女手ひとつで私を育ててくれたんですけど「早く親孝行して、お母さんに楽させてあげたい」と思い詰めていたんですね。それくらいはずっと自覚していた…ところが幼い私は

目の前にお父さんが現われたら「お母さんはお父さんが死んじゃってから、ものすごく大変だったんだから!お父さんは死んじゃいけなかったんだよ!」と言いたかった

そのことをヒプノセラピーで思い知ったんですね。

死んだ者は戻らないし、いつしか私もだんだん分別がつき、その思いは深くに沈んでいったんでしょうね。いつの間にか、父が目の前に現われたら…なんて現実離れしたこと以外の何ものでもなくなっていたんですね。そのことをヒプノセラピーで痛感しました。お母さんはお父さんと一緒にずっととも白髪でいて欲しかった…身近な人の死を目の当たりにして、幼い私は色々胸にしまい込んでいたんですね。セッションを受けて自分のことなのに改めて驚いたんです。

それ以降は何とはなしに子供の自分が抱えていた最大級の悲しみや怒りは癒されたと、それで良しと思っていたように思います。でもそうではなかった…それが昨日判明。小さい細々としたことを未だに根に持っていたり、気にしていたりしていて、その言い分を充分に聞いてあげていなかった

妙な表現ですよね(笑)自分のことなのに「聞いてあげていなかった」というのは。でも、その表現がピッタリなほど、小さなたかちゃんは色々気に病んだまま放ったらかしにされていたことを思い知った訳です。成長するにつれて「ささいなこと」だとか「気にすることではない」とか消化していたことばかりだったんです。例えば

火傷の跡を「汚いから俺に触るな!」と言われてしまったこと

自分より可愛いいコに(そう思い込んで)嫉妬していたこと

他にも色々。可愛さって好みもあるのだし、比べるのはナンセンスという理解を大人の私は持っている訳です。火傷の跡だってアクシデントだったのですから、今なら汚いと言われようものなら「汚い?あんた!何という思いやりのないこと言うの!謝まんなさいよ!」とか何とか一歩も退かないでしょうけど(笑)
小さい子って庇護が必要。言い返してやりたいくても心が折れて言葉にならないことってありますよね。大人だってそうなのですから、幼なかったんですから尚さらだったでしょう。

ずっと溜め込んでいたんですね、ショックやコンプレックスを。
大人の私にとっては気持ち次第なことばかり。なので今現在の自分がOKならば問題ないと思っていた訳です。

でも、そうじゃなかったんですね。深いわぁ…心って。



アーユルベーダーの本に(いきなりでご免なさい、笑)素粒子はそれ自体は静止した状態なのだけど、何かが「意識」を向けると動きが生じるとありました。



魂が人間に「入って」経験することはすべて記憶の倉庫にしまわれます。ライブ感は年とともに失われますが、その時点で消化しきれない思いは置き去りにされるようなものなのでしょう。つまり…見捨てられてしまったように静止してしまった状態。

私も子育てで経験があります、「もう幼稚園生じゃないんだから」とか「そんなこと大した問題じゃない」とか大人の価値観で取り合わないこと。
それと同じで、幼い子には幼いなりに一生懸命だし、大人のように理屈に長けてはいません。まぁ何かと人のせいや何かのせいにして白々しいことを言うところは大人とか子供とかありませんけどね(笑)それにしても子供は大人には敵わない。大人の半分も。ボキャブラリーの少なさもあって気持ちを言い表せずに鬱憤が貯まることがしょっちゅう。皆さんも記憶があるのではないでしょうか。

そういう鬱憤は大人になるにつれて良くも悪くも仕様がないと諦めたり、ストレスを貯めても酒や食事や買い物で発散させたり、紛らす術を身につけます。まぁ身に付かない人もいるでしょうし、限度を超える由々しき事態もある。しかしながら子供の頃理解されないままで来てしまったことは忘れ去られただけで、決して解決した訳ではないんですよね。

例えば

そうですねぇ…トトロのメイちゃん(笑)どうしてもお母さんにとうもろこしを食べてもらうんだって、五月ちゃんがたしなめても聞き分けがありませんでしたよね?
五月ちゃんはおねえちゃんだからお母さんの具合が思わしくなく、一時帰宅はできなくなったと理解できるのだけど、メイちゃんはお母さんにたべさせてあげたい!元気になるとおばあちゃんがいったのだから、食べてもらいたい!一心な訳です。理屈が通らない。



私の中にはメイちゃんのように、理屈が通らない小さなたかちゃんが顧みられることもなかったようで…まさに昨日の時点で言いたいことを「上手に言い表せない」…大人の私の前では論破されてチョン!一件落着にされかねない(笑)

大人の理詰めは時に子供の理解を超えます。

幼いとはそういうものです。無理もない。本能と直感で生きていますからね。でも、だからと言って赤ちゃん扱いされるとプライドが傷つく…本当に幼子って手に負えないってところがあります。

メイちゃんは五月ちゃんに抱きしめてもらいました。お母さんにとうもろこしを猫バスで届けることができました。

物語

現実ではないとあなたは思うかも知れませんが、こういう心のことって案外架空も現実もないのじゃないんでしょうかね。だって、想像は創造ですからね。生み出されたもののはすべて何らかの命というのか、存在理由が生じます。

説明はこれくらいにして(笑)

私の中には

大人の私にとっては別にどうってことないことだとしても関係ない

幼い

汚いと言われたことを母に心配かけまいと言えずにいた子供がいて
本当はこんなこと言われて悲しかったと母に慰めてもらいたかった子供がいて
小学低学年の頃、白血病で亡くなった友だちがいて
踊りの先生が「才能のある子が死んで、そうでもない子らが残った」と言ったとか
その他諸々

誰からも顧みられることのなかった幼い私の思いが一気に浮上してきたのだから、もうビックリ…!流石に出先なので号泣こそ免れましたが、危なかった(苦笑)

そして不思議と思い出すごとに軽くなるのを感じました。

思い出すことがアーユルベーダで言うところの意識を向けると動きが生じるに繋がるのでしょう。「そうだったんだ…悲しすぎるよね、あんまりだよね」と聞き役の私と、堰を切ったように吐露する子供の私がいて、奇妙な感覚でした。




顧みられることのない思いはある意味、見捨てられたのと同じ。




人って気にかけてもらう必要があるのだと思います。あるいは反対に必要とされることを望む場合もあるでしょう。
人は一人で生きているのではありませんよね。それはもう耳にタコな話でしょう。それでも見捨てられるのは耐えきれないはず。気持ちを理解されないってキツいことではないでしょうか。

その延長線上に

顧みられないままに置き去りにされた小さな痛みが私の中にあって

ふとした瞬間に浮上した

幸いだったと思います。

友は辛抱強く話に耳を傾けてくれました。私は彼女に自分の感覚を伝えながら、同時に小さな自分と対話をしていました。

大人の私の人生体験から導き出せる気づきは気づきとして

そのまんま

言いたいことの半分も上手に表現できない幼い自分にしろ、その泣き言にしろ、そのまんま受け止める…「でもね」なんて決して言わずに(笑)ただ聞いてあげる

自分のことだもの。

心の深い領域に沈む幼い「私」と、今ここにある「私」が交流する

以前は人を介していました。ヒプノセラピーもそのひとつ。

でも、それももうイイかなと。

自分のことだもの。またいつ何が胸に浮上しても良いくらいの素養は持っていたいものだとつくづく思ったのでした。





機が熟すにつれ、確かに内省に向かうもののようです。





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(2016年12月27日記)

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