即身成仏を果たした不成仏霊

Category : 辛口ごめんなさい

霊供養を人生の目的にしている人は霊がなぜ供養を必要とするかに熟知していると思います。が、果たしてそれは本当に魂の救済になっているのだろうかと私は常々思っています。どうしてそう思うに至ると言うと、どの人間も納得の上で転生してきていることを知るため。本当にこの世は知れば知るほど他力本願と共依存が主流と思わざるを得ません。それが良いとか悪いとか言おうとしているのではありませんよ。人社会の実体を述べているだけ。

幼子から「白いお髭のおじいさんに(何故か、おばあさんという子はいない)パパとママのとこに生まれると良いよと言われたから」という類いの話を聞いた人いると思います。でもその子にしても断片的に覚えていることを喋ったのではないでしょうか。何故なら霊視してみると誰もが

何者かに推薦(親を)されたとしても選択の自由を与えられています。押し並べて!です。並びに、どういう人生を辿るかも予め見て、本人が納得の上で転生が決定している。

強制されて来た人間などいません。

それなのに何故でしょうね?成仏できずにいる霊魂の多いこと!これは何を物語っているのか、その答えはあっけないほどに簡単です。

此処、娑婆世界にはいったん人生の筋書きの記憶を消去されてやって来ますから、経験することの理由が見えない。従って

恨み・後悔・嫉妬・勝ち負け・騙し騙され、などなど心で処理しきれない。その処理しきれない出来事が飽和状態になり、それが原因で

念が魂を支配する

あるいは突然の死に困惑して死を受け入れることが出来ないということもあるようですが、でも不思議と思いませんか?同じ突然の死でもガーディアンに導かれて無事に還っていく魂もいるのですよ。

肉体を離れれば生前の謎が解けるというスピリチャルな人もいます。そういう人もいますが、それでは不成仏霊の存在はどう説明すれば良いのでしょうね。一概には言えないことですが、ひとつには「執着」の強さが原因と言えそう。今日はこの辺のことを書いてみようと思います。


さて


霊能者は浮かばれない霊を供養し、遺族に死者のメッセージを伝える、という仕事を担っています。除霊もそのひとつと思いますが、霊を成仏させるという「成仏」の真の意味を皆さんはご存知でしょうか?

仏になる

仏になるとは「ニルバーナ/涅槃」に入ることを意味しています。それは釈迦が到達した次元領域のこと。つまりこの世の大勢の人間は至ったことのない境地なんです。「彼岸」と言いますよね?彼岸とは単にあの世のことではないんですけど、知っていましたか?

彼岸=あの世 ではありません!残念ながら。

般若心経の「彼岸に至らん」という節は霊界に至らんということではなく、ニルバーナに至らんという意味。「彼(か)の岸」という表現…彼の岸とは<涅槃>そこには理想境という意味が込められています。
仏教で言う解脱とは「カルマからの解放脱却」。つまり誰かに弔ってもらって実現することではないということです。彼岸<涅槃>に至るも同様に。釈迦亡き後、何千年も経るうちに仏教は新たな解釈が継ぎ足されていった歴史があります。

でも、涅槃どころか霊界に至ること自体が困難な霊魂がいるという…、この世に留まって恨みがましい念を保持し続ける霊魂がいる訳ですね。しかるに昨今は霊界自体が消滅したという説があります。私も視て、確かに霊界とされてきた領域は見当たらなくなっています。なるほど今回が人間生活最後のチャンスというのも頷けるかと思いますが、この「念」こそが私たちを此処に留まらせる原因。この念ってお経を唱えてもらえば払拭できる代物ではありません。第一、仏教の開祖釈迦は念仏を唱えれば、即!成仏する<涅槃に至る>とはひと言も言っていないはず。

生きている間にカルマを解脱する法を説いた。苦はどうして生じるかを説いて聞かせた。しかも釈迦は深山に分け入り瞑想三昧の生涯を送った訳ではありません。釈迦は人々の中で法を説いて行脚した覚者。ここのところをきっちり!押さえておいて下さいね。


さて


知り合いに新興宗教の熱心な信者がいました。いつからか視えるようになり、教団の信者からの相談も受けるようになっていました。そんな中、人間関係に行き詰まり、共通の友人の紹介で私のところに愚痴を並べにやって来たんですね(笑)

断っておきますが、私は霊を目の前にいるように視ることはありません。気配を察知するのみ。そこが既存の霊能者との大きな違いかも知れません。
彼女…Aさんとしましょう。Aさんの周囲にワンサカ!修験道やミイラみたいな僧侶、天狗みたいなのがいるのを察知したんですね。で、聞いてみました。やはりそういう種の霊がついてまわっていると言うんです。彼女、カルマを絶たんと密教系信仰をしていましたし、教祖は霊を解脱成仏させる霊力があるとされていました。ところが成仏するどころか、彼女にくっついていれば修行環境にいられるって居座るようになったそうで。

やれやれですが、どれも六根清浄と真剣に厳しい修行生活を送った強者揃い!

でも霊視して納得しました。成仏などするはずがありません。彼らは根っからの『修行オタク』なんです。つまり彼女も修行オタクなら彼らも修行オタク。類は友を呼んだ訳です。霊は察知し想念で移動しますからね。即身成仏した有名なお坊さんらしいんですが、彼も全然成仏していません。何故か

仏教は形骸化して久しいですからね、即身成仏の作法など絵に描いた餅同然。作法に真面目に則って気がつけば「あれ?」だった(笑、笑いごとじゃありませんね)でも誰かを恨むでもなく、さりとて尊敬されていた生活が忘れられず、この世でウロウロ彷徨っていたそうです。いわゆるベジタリアン状態だったので精神安定していたのでしょうか。穏やかなのに成仏できてないんですよ。涅槃に至ること叶わず。この原因は

・仏教が形骸化している点

・寺院のような静寂で人里離れた修行に最適な環境

・尊敬される地位

これこそが盲点。修験道行者は六根清浄への厳しい修行道に執着し、事足りることができない。つまりミイラ取りがミイラにの図なんですよ。彼らも

・人里離れた修行に最適な環境

・女人禁制

・修行三昧

これが仇になって成仏できない。執着が断ち切れない。六根清浄とは皮肉なことに娑婆世界の中でこそ!なんです。そこに気づかない。修行環境から離れられない。その執着こそが彼らを此処に留まらせているという悪循環。しかも心の隅に罪悪感を抱えているんですよ、それぞれに。

すると

彼らが号泣しながら私に手を合わせているのを感じたんですね。私はその時、彼らこそ救いの手を欲していると気づきました。でもプライドが許さない。もうややこしい人…、いや霊たちではあった訳です。しかも私にはそんな力量はない。そこで彼らに縁(ゆかり)の使者を呼んで(呼べば来ます。能力など必要ありません)ミイラ僧や修験道行者に宣言しました。


  私はあなたたちを供養しようとは思わない
  何故なら、すべての原因はあなたたちが作ったこと
  自分のオトシマエは自分でつけるしかない
  それは一般庶民もあなたたちも同列
  例外はないということ
  修行に相応しい環境でいくら励んでも
  下界での暮らしを捨てたってことは
  真の修行を捨てたということ
  そのことに気づかないから成仏できない
  しかも釈迦の教えは形骸化している

  出直すこと

  恥を忍んで故郷に戻って、出直すこと
  私んとこに来たということはその時期なんでしょ?
  (強く頷いている)
  あいにく私にはそういう力はない!
  実際、あなたたちは開き目くらだね
  上を見てみれば?たくさん使者が来てるでしょ?
  (感極まって増々号泣。でも行けないとスネる)
  ったく、そういうふうだから成仏できないのよ
  素直に手を伸ばすとか、足あるかどうかしらないけど
  一歩歩み出すとか
  素直に救いを求めれば?
  そういうふうだから、念で雁字搦めなんでしょ?
  私は霊能者じゃないから
  あなたたちを供養して不徳を積もうとは思わない
  もともと
  すべての魂は自分で決めて此処に来ているのだけど
  失敗はこの世の常
  なので恥なことは何もない
  
  きっぱり出直すこと

  還って、先達から指導してもらって
  しっかり目を覚まして反省点を反芻して出直すこと

  行きたくなきゃそれも選択
  私には関係ないこと



そうこう言いたい放題の訓示を垂れて(笑)いる間に大半上がっていったとAさんは呟いていました。それでも彼女はお導き業が主体の修行生活に戻って行きました。

皆さんは「takakoさん軽く自慢?」と思うかも知れませんが、霊能者自体が成仏<ニルバーナ/涅槃>に到達した試しがないんです。涅槃とは霊的領域の遥か高次なんです。釈迦が至った領域は周波数ハンパじゃありません。マシュー君ですか?ニルバーナとか語っているようですが、彼とてニルバーナには存在していません。周波数が違います。
Aさんが参加している新興宗教は釈迦直伝と謳っていますが、お導きと解脱供養と護摩木祈願が柱。お導きすれば褒美が授けられるシステム。修行は自身のためのもの。褒美など釈迦の教えからは遠いと言わざるを得ません。

魂の成長は千差万別。どういう領域から来たかでも違いが生じます。しかしながら押し並べて本人の了解なしの転生はない。試練ありきの娑婆世界。苦楽は承知の上。ただ記憶にない。それが念を増幅させてしまうのでしょう。

肉体がある間は癒しと啓発

肉体を離れれば供養


これがスピリチャルを扱う業界の定番になって久しいですが、それこそ思い込みと私は気づきました。この『即身成仏を果たした不成仏霊』は究極の思い込みに縛られていた魂の実話。仏教にしろ、キリスト教にしろ形骸化されています。

念とは

究極の執着、思い込み。どんな事象とて自分にも原因があると知り、どう捉えるかが鍵なんですね。
  


今も真剣に「成仏できない霊を救うのが私の使命」と言い切る人がいます。私はその人の純粋な眼差しを複雑な思いで見つめました。

すべては自己責任なのですが…、霊能者との関わりもあるようで視える視えないと気にしているし、どこまで話せば良いものか迷うところです。

霊能力など邪魔なだけ

霊と霊能者の共依存はこれまでの常識でした。今は波動が上昇し、広がりを見せている時



視えるとか聴こえるとか執着しているのはもったいない!



そこからもう一歩踏み出して



そういう囚われからも解放される人が一人でも多い方が良いと思う今日この頃の私。



人生こそが修行の場



霊能力はひとつの段階に過ぎません。まずはそこから解放されてもらいたいと思っています。



釈迦は人々と共に最後までいましたよ。



これはとても大切なことです。導きをしろとは言わなかったでしょうし、何処にも所属していなかったでしょうし、ご褒美を授けようともしなかったでしょう。




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(2016年12月27日記)

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