Category : つぶやき

テンプレートを時々着せ変えてます。ご飯のは気に入っているのですが、気分転換を気が変わらぬうちに (笑)。自分でCSSですか?操作できればイイんですけど…これ!というテンプレートにお目にかかれずにいます。これからも時々着せ変えると思いますが、大目に見てやって下さい。



ところで…最近ふと感じたことがあったので書いてみようと思います。自分自身を含め、これまで出逢った人たち…人となるに至る過程に想いを馳せました。そして、私なりに行き着いた結論。私個人のものなのでいつもどおり鵜呑みにせず読み進めて頂きたいと思います。加えて「私のことを言っているんだわ」とか勘ぐったりしないようにお願いしたいと思います。



私は常々、自身の心の声を聞く大切さを説いています。
持論ですが、これは色んな人を観察していて痛感すること。それまでのプロセスにワークショップやセッションは必要に応じてあるものだと思うんですね。つまり精神世界のノウハウは通過儀礼というのが私の体験上言えること。むろん色んな段階の人がこの世界にはいます。自分のペースで進んでいけば良いのだと思います。

ところが新興宗教となると入口はあるけれど出口がない(苦笑)。辞めるとなるとひと騒動もふた騒動もあるケースや地獄に堕ちるとか何とか一瞥を加えるケース…「我々こそが正しい教え」思考は実に閉鎖的です。
信仰は自由。でも、何処かの新興宗教に所属するとガラリと様相が一変します。彼らには自分が信じるものが全て。それを取り上げる権利はこちらにはありません。

要するに「放っといてやれや」

一歩も退かない相手と議論してもエネルギーを浪費するだけです。これはひとつには『縁』の問題であり、教祖との間に魂の契約があるケースも。実際コードをくっつけられている人がたくさんいます。

依存傾向の人や過去世の因縁、霊視すると色んな人間模様が視えてきます。その両方の性質を持っている人はその縁を断ち切ったとしてもソワソワと次の対象を探し当てます…!私はその様子複雑な思いで見送ったことがあります。本人以外コードは断ち切れないということですし、端がオロオロしても本人はそうやって対象を見出した時がシアワセだったりするもの。要するに余計なお世話ってことかと思います。



さて…私たち魂が人となる過程ですが、



一部例外を除いて、皆、何らかの問題点を抱えていることに私は気づきました。え?takakoさん、何を今更ですか? それがそうでもないんです。私が辿り着いた結論は 何らかの使命を帯びた存在でもまったく問題がない訳ではない…それが彼・彼女をして人間転生に導いたということ。

あれ?私のこと? あの人のこと?と思いを巡らせてます? そういう考えは脇に置いて読み進めて下さいね。

実際この私もその中に含まれるんですよ。使命があって? いえいえ問題点あり、という部分。何も問題がなければ来る必要はなかったんです。私自身に越えなくてはならない何かがあった…だからこうしてまま成らぬ肉体に入って、まま成らぬ感情を体験しているんです。私が視る限りこれまで出逢った人に例外はいません。カルマがない=問題点がないとはならないのですよ。

でも、それってダメなことでしょうか?

完璧な魂なんていないんですよ。それを裏返せば伸びしろがあるとも言う個性があるとも言う。神様だって個性バリバリじゃないですか?もうついていけないくらい(笑)。宮崎駿の『千と千尋の神隠し』なんて赤フンの大根のオバケみたいなのが描かれてましたよね。八百万の神々は実に多彩のようです。

地球、三次元娑婆世界が何故 魂の学校に指定されたかまでは私にも分かりかねます。宇宙人のDNA実験場だったとか諸説飛び出しているようですが、ここまで雑多な存在がうごめく世界って…!修羅と癒しが交叉してるんですよ。まったく支離滅裂です。

それこそが自由意志の着地点を探る…、結果は本人に受け止めさせようではないか、という格好のフィールド。自己責任を負えない者もそれなりの『次』へ移行する…まさに此処は魂の試験会場でもあるのですね。再試験に継ぐ再試験という魂もいるでしょう。

ここは過酷さと慈悲が混在する世界でもあります。この過酷さにも慈悲にも神の介入がある。

かわいい子には旅をさせろということなんでしょうね。なので色々としでかす私たちのために様々な教師やメッソドが降ろされたんでしょう。教育し甲斐があるとかないとか、鍛え甲斐があるとかないとか(笑)。

ところが人間はひと所に依存する傾向がある。ずっとずっと居心地の良いとつい留まる傾向があります。

そして、魂自身に実現したい何かがあることも指摘せねばなりませんね。問題点はある…でも、きっかけも最終決定も本人次第ということなんですね。



実に興味深いです。平たく言うと天の意思と個人の意志が行動実行されているという…人ごとのようですが、本当に興味深いと思います。



何らかの悟りを得た人も、霊験新たかな巫女体質も、転生以前の記憶を有していようといまいと隠された部分ってあるんですよ。その部分は前もって知っていると魂の成長の妨げになるから。これに尽きると思います。これは天の慈悲…スゴいことと思います。

私は抗(あらが)うのをとっくに辞めました。至らないことばかりで今さらカッコつけても仕方がない。第一すぐ見破られてしまいますって(笑)。正直に全て持って還る覚悟でいます。それでも自覚にないことを突きつけられるかも知れません。それが怖くて天に還れるか!なんてね(笑)。

思うように機能しない現実の元、そこを何とか工夫して活路を見出していく…醍醐味はそこにあるのだと思います。力量の限界もあるでしょう。それだって自覚できたのなら良しとしましょう。身の丈を知るのも学びのひとつではあります。

引き寄せの法・魂を浄化する4つの言葉・聖なる預言・チャネル情報・ヒーリングメソッド…、さまざまな教科書が私たち人間にもたらされました。
私たちはそれぞれに見合った指導者を必要とします。道を照らす灯火は心の支えとなります。そして、師はそれぞれの段階に応じて存在します。
それぞれの段階…そう、一つの段階で良しとする魂もいるでしょうし、更なる高みを目指す魂もいるでしょう。それでも私たちはそれぞれの指南やメソッドを授けてくれる人を一度は師と仰ぎ、そしていつかは卒業の時を迎える。まあ…卒業なんかしないぞ!という人は…置いといて。



私たちは自身の「来た理由」に辿り着く道を歩み、



辿り着いた人はその先を歩んでいくんでしょうし、まだ探している人だっていると思います。より進んでいるとか遅れているとかいう問題じゃないんですよ。来た領域が雑多に異なるんです。自分のペースを他と比べるても意味がない。

ここに来た理由を思い出した時、辺りを見回してみて下さい。

親子・兄弟・夫婦・仕事関係・友人などなど、自分も!配置されている人材であることが見えてくるはずです。意味ないと思える人間関係でさえ意味がある…つまり「ノーサンキュー」と意思表示の機会を私たちは得るのです。軋轢だってそこから学ぶべき点はある。

すべては『選択』の結果とプロセスの間を流通する事象。つまりA地点からB地点に行く間に色んなことがあってぇ、その経験値を活かしてぇ C地点を目指す・・・という感じ。

理由を見出した時点で目的の70%は果たしたと言えるかも知れません。後は抗わず「絶対妙なことにはならない」と肩の力を抜くことかと思います。渡り鳥のように飛ぶ時を知る、そんな感じかと思います。抗わず気流に乗り帰巣本能に委ねベストを尽くす。ベストを尽くすのと、リキむのとは違いますよぉ(笑)早まらないで下さいねぇ。

情報やチャネルで先を見よう見ようとしたり、自分探しに余念がない間は予備校に通っているようなもの。実践では決してありません!ましてやそれで食べて行こうとする人、結構いて…予備校の先生で世間はいっぱいいっぱいなんですけど、どうするつもりなんでしょうね。いえ精神世界界隈のことですよ。

神秘体験に魅了されるのもほどほどに。神秘体験は魔を呼び込む危険があります。魅了される心って隙だらけですから。



私は思うんですよ。本当の師ってどういうんだろうと。

俺についてくれば間違いないは論外…神の代弁者も「あなた何様!」と思ってしまう私ですが、それを必要としている人がいるのも事実。要するにそれぞれの主観に委ねられるってことですよね。難しいですね。

それぞれに何が必要で、今どういう状況にあるかをいち早く察知しても、肝心な時に突き放す人かも知れません。トライしてみろと。これまで培ってきたものを活かせと。

いずれにしても私たちは自分が「来た理由」を直感をアンテナに探す旅人です。

人生はとても価値ある旅。時には道に迷うことだってあります。そういう時、的確なアドバイスが出来て、手取り足取りせず、後は成り行きを見守る懐を持つ人が好ましいのだと私は思います。
私たちはそれぞれに問題点を抱えている。でも、それは決して恥ずかしいことなんかじゃない。成長するべく自身に課した宿題です。

キリストや仏陀は心の闇を照らす光明です。素晴らしい道標を私たちに残してくれました。でも、彼らふたりとも書物にはしていないですよ。説法はすべて口伝で行われたと言います。文盲の人にも分け隔てなく伝わるように。教典もバイブルも弟子が功績を後の世に伝えようと制作したものと聞き及びます。

善き人は自分を何かの役に立てたいと思うものです。それさえも利用する輩がいるのですから、私たちはその辺のことも含めて賢くならねばならないと思います。

私たちの多くは師を必要としています。でも、いつかは巣立たねばならない。人間だけですよ、後継者とか相続とか親孝行とか言って子供を信者を留めようとするのは。そりゃあ親孝行するに越したことはありません。高齢の親を介護する必要だってあるでしょうけれど。私も人の子の親ですからね、娘の厄介にだけはなりたくないと思っています。




ひょっとしたら、良き師とは「自分を越えて行きなさい」と見送ってくれる人なのかも知れません

完璧じゃない自分をさらけ出し「大丈夫」と胸襟を開いてくれる人かも知れません

厳しい目を向けてくれ、ここぞ!という時は褒めて勇気づけてくれる人かも知れません

良き師とは我を退いて、すべての中に創造の息吹を感じ取れる人かも知れません




厳しいことを言ってくれる人がいる間は大丈夫と私は思っています。いなくなった時は私自身が聞く耳を持たなくなった時なんですよ。

皆が発展途上。

今日の内容で何か引っかかる点があったという方…どうぞ、それを内省に向けて頂きたいと心から願います。誰か特定の人を名指した訳ではないものの、これまで出逢った人たち、私自身のことを含めて感じたことを書いたのは事実。逃げも隠れもしません。





免疫をつける

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ヤスの備忘録で興味深い記事が3月9日付でアップされています。読んだ方もいるでしょうね。未だの方も一読の価値ありと思います。

ここで紹介されている「スピリチュアルウォーカー」(著作:ハンク・ウェセルマン)は10年以上前に読んだ記憶があります。5000年後の未来にタイムスリップしたビジョンが描かれています。
偶然ですが、当時アカシックリーダー(読み手)、ゲリー・ボーネル氏のワークショップに知人に誘われて行った際にこの著書に関する質問が出ました。ボーネル氏の回答は完全否定…「アカシックレコードを見る限り5000年後の地球には人類は存在しない。アセンションは今回が最終チャンス。なので、ここまで混沌として人口過密」という持論を展開していたと記憶しています。

まあ…誰もが自分の情報が一番正しいと思っているので、私のような外野は成り行きを見守るしかありません。あ!5000年後は私はいないか(笑)。いずれにしても今回ヤスの備忘録で紹介された内容はグッと直感に訴えてくるものがありました。かなり真髄を捉えているのじゃないかと。皆さんもそれぞれに感じるところがあるでしょう。肯定否定は各々に委ねたいと思います。

さて、今日は娘を見ていて感じたことを書いてみようと思います。シツコイようですが、私個人の所感なので参考程度に読み進めて頂ければと思います。



娘は自他ともに認める「気にするタイプ」。

人の言動に過剰反応するところがあります。小さい頃はアルプスの少女ハイジよろしく、めっちゃ明るいマイペース人間(笑)バカにする親子もいましたが、友だちも多かった。天真爛漫とは我が娘のことと思っていました。ところが、成長するに従って自分が嫌な目にあう…迷惑行為を受けているという自覚が芽生えた。親としては「今頃!」ですが(苦笑)、本人は「私もあぁだったんだ」と思い当たるフシがあるらしく落ち込み、しばらくすると自分がどうしたらイイのか学んだふうな行動が見受けられる…我が子自慢に聞こえるかも知れませんが、確かに『学べる』子ではあるようなのです。至らないところも枚挙に暇はありませんが。誰もが自分の反面教師なんですね。

いちいち過剰反応しては右往左往する様子を長いこと見ていて、私自身も厳しく躾けし過ぎたかなと反省することも多々ありました。私は、

・自分がやられてイヤなことはしない!

・自分がしてもらって嬉しいことを相手にもしよう

・でも、自分がしてもらって嬉しいことを相手も嬉しいとは限らない

・もし嫌がられたら素直に「ごめんなさい」を言おう!

この4か条をことあるごとに言い聞かせてきました。理解してないな、こいつ!と思える時も一貫して。難しいですよね、大人でも。
でも、これは交際マナーの基本というのが私の持論。培ってきた交際術な訳です。一見矛盾するようで、これはなかなか有効♪ お勧めです(笑)え?そんなことtakakoさんに言われなくても?失礼しました。



娘はガラスのハートと図太さを同居させています。人には何らかの相矛盾する要素が内在している…これも私流の人生哲学ですが、娘も例外ではありません。私はその様子を見ていて気づいたことがあるんですね。

どうやらグサッと傷ついてしまうところが彼女の最終着地点ではないようなのですよ。

経験を積むことで、ある時点で自分はこういうことで傷ついてしまう心の持ち主であることを彼女は受け入れたようなんです。それは他の人に対しても同じ。つまり彼女は「ありのままのその人を受け入れる」素養を経験的に身につけたことに私は気づいたんですね。これは大きかったですねぇ。

傷つきやすい自分を「なんとかしたい!」とは思っているようなのですが、もっと図太くなりたいとか何とか。でも、妙なところが図太く無頓着なんですよ(笑)。おもしろいですね、人間って…私も含めてですよ♪

最近食後の会話で父に娘が「私ってチキンじゃん。だからすぐ気にするんだけど、言われたことは心に留めとくよ」と言っていたんですね(そうそう「どういう時に自分を小さ~いと思うか」というのもありました、笑)。

娘は彼女に意見する人に悪気があっても、「悪気」にフォーカスしません。

言われたことで何か自分が顧みる点はないかどうかが彼女の主眼なんです。これ私も学ぶべき点と思いましたねぇ。


なので、相手の言い分は言い分として「意見ありがとう。でもね、私は私だから」とか何とか携帯で話しているのを耳にすることもあります。ちゃんと取捨選択してる、受け入れるだけじゃないんだとちょっと驚くことがあります。

彼女にも友だちに「嫌われたくない」という思いがあります。その辺のことを私は「イヤならイヤときちんと伝えなさい。愚痴ばっかし…あんた!数年来同じことぼやいてるよ!お互い未熟者同士じゃんか。ウソッコじゃない人間関係はそうやって築いていくんだよ!ちゃんと相手と向き合わずにお母さんに愚痴ばかりこぼすな!」とか何とか。私のような親を持つ子供も大変ですね(笑、笑いごとじゃない)。

まあ鉄は熱いうちにとも言いますが、私があ~じゃこ~じゃ言わなくても娘は彼女の友人関係の中で揉まれ、

免疫をつけていったように思います。

スピリチャル的には傷つきやすさは癒しの対象かも知れません。それもひとつの方法なのでしょう。でも、傷つきやすい自分の性質を受け入れると、どんな時にそんな言葉や行動で自分がそうなるかが見えてくるようです。そうすると自然と対処法も身に付く。
同時に周囲の理解も必要かと思います。親はなので、そういう意味でも大切なパートナーなのだと思うんですね。長所も短所も知り、意見を言ってくれる身近な存在として。

後、私は娘に自惚れが垣間見えると足元をすくいます。ちっぽけな自尊心はエゴ。邪魔なだけです。自尊心もヤジロベエみたいなもので、そのバランスは難しいですねぇ。人にハッキリもの言われると良い気持ちはしません。否定されたようでプライドが傷つくものです。なのでハッキリもの言う相手を人は苦手とします。それは自身のエゴを量る良い材料と心得た方が良いと思います。私自身そのエゴがあることを認め、抗わず受け入れ、そうして免疫をつけてきたように思います。

尊厳を守ることとエゴは似て異なる領域。尊厳は存在意義。ちっぽけな自尊心は心の作用。まったく異なります。




いずれにしても、
娘は相変わらずなところはあるものの、転んでもただでは起きない…さすが!アルプスの少女ハイジ系ですね(笑)。そういう気質に育ってくれたことに感謝せねばなりません。私にもシッカリ意見する子です、私はこう思うよと。

人社会は上辺を整えねばやってられない社会。人間だけじゃないですか?考える葦とか何とか…でも、考えてきたのが人間の歴史だとすると何というか…複雑ではあります。思考は欲得と背中合わせですからね。




いずれにしても、
自分の気質を受け入れ、抗わず、そういう心がけが心の免疫をつけるのに功を奏するようです。

それは引いては「己を知る」ことに繋がります。

精神世界に堪能であっても自身に暗い人は山ほども谷ほどもいます。備わった気質は全て、私たちが魂の世界からやって来るに際して納得したもの。つまり予め用意された材料と言えるでしょう。それは魂の成長に必要とされたのでしょうし、あるいはバランスを取るためのものだったりするのでしょう。

自分を知り、その気質に振り回されないでいるこって…難しいですねぇ。なので、娘の最近の様子を見ていて、私も学ぶことが多いなと感じた次第。

教師は遠くにはいません。

教師は万能でも全能でもありません。

人とも限りません。

私たち自身のそういう開かれた目が『教師』を見い出すのだと思います。



目からウロコ…日々そうなんでしょうね。まだぁ?というくらい落ちます(笑)。





脱皮の時を知る心

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明日は今日の延長線にあるのか…、境を機に変化する日なのか…、今はまさに個々にタイミングというものがあって、地球規模の預言と個人個人については微妙な気がする今日この頃です。

非公開の方に書こうとも思いましたが、『龍馬伝』を観ているせいか(笑)一人でも多くの人に読んでもらいたいという気持ちが高まって、ここで書いてみることに。
いつもどおり私個人の所感。こういう考えた方もあるのかという程度に読み進めて頂きたいと思います。



龍馬が生きた時代、日本は鎖国をしていたため世界の動向を知る者は一握り。そこに黒船が威風堂々と現われたのだから上や下への大騒ぎになった訳ですよね。
攘夷論は…今こうして龍馬伝を観ていると『井戸の中の蛙大海を知らず』の喩えを思い起こさせます。確かに、

当時の中国のように強国に侵食されるのを良しとしない考え方は間違ってはいない。

ただ…相手のスゴさ、自分たちの脆弱さに思いが至らなかった。

要は対抗し対等にやり合うだけのチカラをつける必要があった。

まあ相手に通じない誇りをいくら振りかざしてもということなんですよね。開国派にも一理あったのは確か。要するに人間とは生まれ育った環境の中でしか思考が及ばないということなんですね。その点、龍馬はただ者じゃなかった…!器がデッカい!好奇心旺盛な若者だったんですね。関係ありませんが、身長も180cmくらいあったとか!何処にいても頭ひとつもふたつも上で見つけやすかったでしょうね(笑)



私はこのドラマを観ていつも感じるのは『先見の明』。世界地図の中で日本がどういう位置でどれだけの国土を持つかという…それって、スピリチャル的にも言えることだと思うんですよ。これは「己の器を知る」ということに繋がりませんか?

takakoさん そんなの当たり前、ですか?

でも、人の自覚なんて多寡が知れている気がします、私。己の魂の本質を知る人は少ないように思いますけど。精神世界を生業としている人も変わりありません。案外自分のことも、自分がやっていることの影響も分かってないものです。私は以前、人様の守護霊を交換する霊能者がいてぇ、これまたそれを有り難かっている人たちがいることを知りぃ、唖然としたことがありました。その霊能者に一度遭遇しましたが、黒い蛭のようなのがくっついてました。その蛭は私を「覚えてろよ」というふうに威嚇してその人の身体の中に入っていきました。「操られてるじゃん」ですよ…ったく。

そういうサイキックに魅了されている人はそれはそれとして、私はこれまでの癒し・気づきの類いにも変革の風が吹いていることを、皆さんに知らせる気運が高まっているのを感じるひとり。もう昨年辺りから魂の行き先は決定したとかしないとか取り沙汰されていますが、それはあながちガセではなさそうです。

またアセンションやスピリチャルに関するエキスパートとは言えども線引きの下にいる人もいます。本人は知らないだけで。知っている、感知している、イコールではないようで難しいですね。善根を植えるべく活動している人の中にも微妙な人はいます。

私が視る限りなので鵜呑みにすることはありません。それでも言えることってあって、

人間が自覚できる範囲の善根なんて多寡が知れているということだと思います。

慈善事業が偽善事業になっている場合があるってことなんでしょうね。

魔はいつ何処にでも存在する、ということなんですね。寄付贈呈して喜ばれ、特別待遇に浴する…こういうは魔の真っ直中と思って間違いない気がします。慈善団体のスポークスマンや使節をやって高額のギャラを受け取るとかもそう…枚挙に暇がありません。
かえって人の役に立っているのかどうか「わからん」くらいの方が良いのかも知れません。試行錯誤して、悩んで、これで良いのかと思うくらいで。そういう作業って嫌が応にも自分の心と向かい合わざるを得ません。
あるいは世のため人のためといっても「自己満足」という自覚が、その人を見せかけの謙虚さから遠ざけるということもあります。

難しいですね。

お金というエネルギ-に関しても、今のスピリチャルブームはデプロマさえあれば誰でも看板を掲げられるご時世です。
私も一度だけ誘われて行ったところがあって、その『会社』からDMが今だに届くんですよ。スクール入学金がいくらで授業料はいくらと。「あなたもヒーラーになれる」とか「チャネラーになれる」とか、それってクドき文句のようなもの。知り合いのほとんどがカウンセラーやチャネラーに名乗りをあげてます。どの人も五十歩百歩。当たるも当たらぬも八卦なのが現状です。まだまだカウンセラーを目指していた知り合いの方が良心的と私は思いました。

何故ってカウンセラーって話を聞くのが仕事でしょ?クライアントも言葉にすることでハッと気づくことがある。ここがポイント。


こういうことが『脱皮』のきっかけになってくれたりします。

自発を促す…ここが肝心・要なんです!


情報が氾濫し、癒し業も飽和状態。何故にアセンションアセンションと一部で話題になっているかと紐解いてみると、要するに輪廻の輪から脱出し、地球卒業組を目指そうという…?
しかしながら、いつまでオンブにダッコなんでしょうね。チャネラーにお伺いを立てないと分からない『自分』を抱え、何が次元上昇か、卒業かと私は思ってしまいます。

私たちに足りないのは、

自分を信じる心。

違います?

外にばかり情報を求め、答えを教えて欲しいと思っているうちはアセンションはあり得ないと思った方が良いです。アセンションとはこの次元を卒業することです。自身の内面としっかり繋がることで視えてくることってあるんです。

気づきとはそういうことではないでしょうか。

いつも言うことですが、直感は微妙で精妙なサインとして浮かび上がってくることが多い。その僅かなサインをしっかり受け止める技量を私たちは養う…そのために色々試行錯誤してきたのじゃないでしょうか。
私にだって分からないことはた~くさんあるんです。手っ取り早く聞いてみようとすると弾かれます(笑)ひとつひとつ段階を経るしかないのだと思います。




ひとつコツがあるとすれば、



アセンション情報など片っ端から収集しないことです。外に情報を求める限り、魂の自立は訪れません。自分が必要とするものって自身の心の中にしまわれているんです。

何だかよく分からないという理由でなおざりになってやしませんか?

私が視ていても魂の起源が皆違っています。ひとりひとりみんな実に個性的で魅力があります。

知ろうとするのを辞めて…下手な考え休むに似たりなんですから(笑、言うよねえ)何かある度に自分がどう反応するのかを感じるだけで自分が何を必要としているのか感じられるものです。発展途上なんですよ、全員ひとり残らず!失敗は成功の元とも言う!心を強く持って試行錯誤していきましょうよ。転んでもタダでは起きないぞ!と。

チャネルも情報も引き寄せの方も4つの言葉も背中のひと押し。

私の話も五十歩百歩と思って頂いて構いません。ただし「失敗は成功の元とも言う!心を強く持って試行錯誤していきましょうよ。転んでもタダでは起きないぞ!」という箇所はインプットして頂けると、takakoさんは多いに喜びます^^





アセンション情報を持っていようと

Category : アセンション

いえ…情報を得ているからこそ邪魔になる気がしてならない今日この頃の私。アセンション・エリート…という名称があるのかどうか…いずれにしても先駆者的存在やチャネラーも国内外に溢れています。中には神の代弁者を自称している人もいますが、どれも五十歩百歩と思うのは私だけでしょうか?


つい最近終えたばかりのバンクーバー冬季五輪。フィギュアスケートの採点も物議を醸しましたが、それまでをもスピリチャル的解釈をして善と悪とか何とか…。ですが、正義の味方と悪人という縮図で熱くなるのもどうか思いますよ。私たち人間は自分の価値観でしか物ごとを見ない種族ですからね。ケンケンガクガクと何を騒ぐか!というのが私の感想。人間が認識する正義なんて多寡が知れています。聖戦が良い例ではないでしょうか?

今は闇が炙り出される時とか何とか…、そういうこのっていつの世にもあったことではないでしょうか?そういう周期ってあるんです、いつの世にも。

アセンション狂想曲とは、まさにこういう事例を指すのだと思います。

スピリチャル的解釈ほどいい加減なものはありません。チャネラーはすぐにそういう食指を伸ばしたがりますが、自分をマリー・アントワネットの生まれ変わりと信じきっている人に何を言っても覆らないのに似て、あまり意味をなしません。私たちは冷静になる必要があります。

アセンションは新興宗教の閉塞感に新たな突破口を開いた。信じたいものを求めている…そうなんです。私たちは自分が「信じたい」ものを求めている、違います?外に答えを求める限り堂々巡りを繰り返すか、あるいはのめり込ん出しまう…人間は考える葦といった偉人がいましたが、私は「人間とは彷徨える根無し草」と言いたいと思います。

自身の根っこを持たないからフラフラとネットサーフィンするのでしょ?真実は何処かにあるはずと彷徨うのでしょ?

あのですね…万人に当てはまる真実などあり得ません!「私についてくれば間違いない」などという言葉に惑わされては、だから、ならないんです。

アセンション先駆者っていますよね。善根を植えることを推奨し活動している人もいます。でも残念ながら、本人の自覚できる範疇って多寡が知れている…良い行いをしているという自負がかえって邪魔になっている人って意外に多い。とても残念なことと私は思っています。

難しいですね。

自覚がアダになっているんですよ…!





私たちはそれぞれに出身が異なります。

アセンションのアの字も知らなくても地球卒業する人は実際います。

人間の格好をしているからと言って高等動物とは限らない。

信仰しているからと言って天国が約束されている訳ではない。

こと此処に至って焦っても仕方がない。私たちはアセンション情報に踊らされている自分に気づくことが大切と私は痛感しています。教科書はあり得ないんです。チャネラーの情報も参考にはなっても鵜呑みは危険です。『神との対話』の真似事をブログで発信している人もいますが、本人も自分がなりきりとは夢にも思っていないでしょう。天使をビジネスにしている人いますが、エネルギ-は冥界に通じています。本人は世のため人のためと真剣なのでしょうが…。

神の代弁者も然り。

心の持ちようを自分自身で整えていくしかないのですよ。いつまでお手本を必要としているのでしょう。三歳児だってやって良いことと悪いことの区別はつくようになっています。ただし実行できるかどうかなんです。

その、実行できるかどうかが未熟なまま、成長してしまった人間がこの世界には溢れているということでしょ、違います?人の世のルールより個人の自由を謳う人もいます。それはそれであり!なのでしょうが、これだけの人口密度なんですよ。どこかで線引きをしなければ、自由意志と自由意志のぶつかり合いで収集がつかないでしょう?それだけ未熟者なのですよ、私たちは。

未熟さが自分の中にもある…その自覚があるからこそ、私たちは外界に答えを見出そうとします。数多くの思想が、なので私たちには与えられてきました。でも、いつまで教科書を必要とするのか…それを決定するのは私たち自身。これだけの情報を浴びて、どれを取るかとか迷っている場合ではありません。

答えは私たち自身の中にある。そこに気づくために全てはあったのですから。

罪深いとは無明ってことでもあります。知らないから、物の道理に暗いから、悪さをするんです。宗教家にもこの類いはいます。欲に目が眩むとはよく言ったものですね。

思い出さねばならない…。

私たちは常に自分が何者であるかを知りたがる生きものであることを。「あなたは**ですよ」と言ってもらう必要があるままで、本当に地球卒業できると思いますか?




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(2016年12月27日記)

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